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2010年5月

2010年5月31日 (月)

「ひらめき」≠「直感」

『吾(われ)、十有吾(じゅうゆうご)にして学に志し、

三十にして立ち

四十にして惑(まど)わず、

五十にして天命を知り、

六十にして耳順(みみしたが)い、

七十にして心の欲する所に従えども

矩(のり)を踰(こ)えず』

 

最近、(脳科学の)師匠の影響で有名な『論語』の言葉が違って見えるようになってきた (前は漠然と好きなだけだったけど)。

 

脳機能の視点から見ると、「ひらめき」と「直感」はまるで別物らしい。「ひらめき」も 「直感」も、何かフとしたときに考えを思いつくという意味では似ているけれど、その後、つまり、思いついた後の様子がまるで違うとい う。

 

違いは、「ひらめき」は思いついた後に理由が言えて(本人に理由がわかる。理屈や論理 に基づく判断)、「直感」は自分でも理由がわからない(しかも「直感」というのは案外正しい)。

 

そして、師匠は導く。

 

「直感」は「学習」で、本人の努力の賜物なんだと。

「直感」は訓練によって身につく(経験に裏づけられていない勘は「直感」ではない)。

私たちが学習したり人生で経験したりすることの意義は、「直観力」を育むという側面も あるのではないかと。

 

さらに師匠はこう推論する。

 

40で惑わなくなるということは、40歳 くらいから「直感」がさかんに働き始めるということを意味しているのではないかと。逆に若い頃は、まだ「直感力」が不足しているとい うこと。そこで若者たちはどうするかといえば「直感」ではないもうひとつの能力=「ひらめき」を頼りにする(つまり、論理 的思考を重ねていってアイデアを搾る)。こういう訓練をしっかり繰り返して、そしてまた、いろんな経験を積むことによって、将来的に は「直感力」が養われいく。

 

師匠が言う通り、「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず(思うまま に行動しても節度を外すことはない。「直感」だけで行動しても大丈夫)」の境地に達した70歳 から見れば僕らはヒヨッコだろう。

 

歳をとるのも、満更、悪いことばかりではなさそうだ。

 

僕がテニスコートでは「直感」に頼っているの は言う迄もない。

                  おしまい

 

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チャンスボールについて

チャンスボールについての考察(もちろん勝利のために)。

 

「チャンスボール」を言い換えると「時間的に余裕があって(ありす ぎて)、リキむ(リキめる)時間が豊富にあるボール」となる。

 

チャンスボールをきちんと仕留めないと、勝利はおのずと遠ざかって いく。

なぜならば、対戦相手に「追い詰められたらあまくなっても相手の コートに返せば何とかなる」と思われてしまうことは、自分がどんな武器を持つことよりも不利になるからだ。勝利のために チャンスボールは確実に決めなければならない。

 

滞空時間が長く豊富な時間の中で、呼吸を合わせ、

ラケットの重さを肘(身体)で感じACEを狙う。

 

チャンスボールが決められないようでは、

勝利の女神は微笑まない・・・。

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2010年5月28日 (金)

テニスを通じて人格を磨く

師匠の文章を「テニス」に置き換えてみる。

 

『「テニスを通じて人格を磨く」

普段の生活を変 える。姿勢を変える。人間を高める。

それを徹底すれ ば、おのずと競技力は高まり、

勝利はついてく る。

勝負である以 上、勝利を目指すのは当然。

しかし、目標は 全日本選手権出場でも、全日本選手権優勝でもない。

その先にあるも の、長い人生を充実させるための人間力を磨くために、全日本選手権がありテニスがある。』

 

高い志だ・・・。

 

僕の頭の中には、これしかない。

子供にどうやって接するべきか、

現在でも「答」が判ったわけではない。

でも、僕なりのやり方の発信を続けようと想う。

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2010年5月25日 (火)

続々・私の敵は私である

『無傷の、完璧な状態にある私を「標準的な私」と措定し、

私がそうでない ことを「敵による否定的な干渉」の結果として

説明するような 因果形式、それが「敵」を作り出すロジックです。

「敵」はこのロ ジックから生み出される。

「敵」とは実体 ではなく、「原因」で「結果」を説明しようとするこのロジックそのもののことである、と言ってもよいかと思います。

私が現在このよ うな状態(歯が痛かったり、腹回りがだぶついてきたり、血圧が上がったりしている状態)にあることを「かくあるべき状態からの逸脱」 ととらえず、

「まあ『こんな もの』でしょう」と涼しく受け容れる。

それもまた「敵 を作らない」マインドの一つのかたちです。

老いや病や痛み を「私」の外部にあって「私」を攻撃するものととらえず、「私」の一部であり、つねに「私」とともに生きるものと考える。純粋状態 の、ベスト・コンディションの「私」がもともと存在していて、それが「敵」の侵入や関与や妨害によって機能不全に陥っている。それゆ え、敵を特定し、排除しさえすれば原初の清浄と健全さが回復される。そう考える人の世界は「敵」で満たされます。そういう 人にとっては、やがてすれ違う人も、触れるものも、吸う空気も、食べるものも、すべてが潜在的な「敵」になる。「敵」の介入のせい で、「私」の可動域が制限され、活動の選択肢が限定された状態として「私」の現状を説明する人は、つねに「敵」に囲まれています。そ して、そのとき「私」にとっての理想状態とは、この世界に「私」以外に誰もいないこと。絶対的孤独のうちに引きこもること を意味する。』

 

深い・・・。

最近、しばしば、武道の心で日常を生きるのも

なかなかオツなものだなーとしみじみ思うようになった。

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2010年5月18日 (火)

続・私の敵は私である

それらのトラブルは彼らにとってはアリーナの中のライバル以上の「敵」 です。

ですから、彼ら は「敵」のリストをできるだけ網羅的なものにしようとします。

リストが網羅的 なものになればなるほど高いパフォーマンスを安定的に行えると考えるからです。けれども、それは空しい努力であることがいずれわかり ます。

というのは、遠 からずそのリストには「抜け毛」とか「睡眠不足」とか「幼児性」のようなものまでが記載されることになるからです。たしか にそのようなファクターは高い確率でパフォーマンスを低下させる。でも、そこまで行ったら、生きていることが絶えざる加齢と老化であ る以上、私が生きていることそのものが私の敵である、

私の敵は 私であるという逆説的な結論まではあと一歩しか残されませ ん。

「敵」という概 念は根源的な矛盾を含んでいます。

敵を除去すべく 網羅的なリストを作成すると、

世界は自 分自身を含めてすべてが敵であるという結論に私たちは導か れます。

ですから、武道 的な意味での「天下無敵」は、それとは逆にどうやって「敵」を作らないかを工夫することになります。』

ここで一息。

つづく。

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2010年5月17日 (月)

私の敵は私である

幼い頃からスポーツ(野球、テニス等)に慣れ親しんできた僕にとっ て、

考え方がスポーツ思考になるのは致し方なかったと思う。

でも、スポーツ的な思考が表面的なものにすぎず、

武道的なものの見方がストンと腑に落ちるときがしばしばあって、

最近は武道に強く惹かれることが多い

(実際にやってみようとは思わないけれど・・・)。

 

この間も「私の敵は私である」と感じたばかりだ。

それも、痛切に・・・。

 

師、曰く

『「天下無敵」という言葉がありますが、この言葉を「天下の敵

という敵をみん な斃(たお)してしまったので敵がいない状態」

だと解している 人が多いようです。

でも、よく考え ればわかりますけど、そんなことはありえない。

「敵」を広義に おいて私たちの心身の機能を低下させ、

生きる 力を損なうすべてのもののことを解するならば、

すべての敵を斃 すということは不可能だからです。

風邪を引いて高 熱が出ても、親しい友に裏切られても、

雷撃に打たれて も、私たちの心身の機能は低下します。

ですから、世界 的なアスリートの中には、ツアーにトレーナーや

栄養士だけでな く、弁護士や広報担当者や心理カウンセラーまで

連れて歩いてい る人たちがいます。

それは彼らが契 約上のトラブルやメディアとのいさかいや

心理的ストレス がアリーナにおけるパフォーマンスを致命的に

損なう可能性が あることを知っているからです。』

つづく。

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